文化 民族舞踊 「ツァム」とはチベット伝来の仏教の仮面舞踊劇で、供養や布教を目的に多数の信者を集めて催される。演者のラマは悪鬼や白髪の老人などを模した大形の仮面を被り、装身具を鳴り響かせなから物語を踊る。佳境に入ると賑やかな音楽と相まって相当な迫力があり、一見の価値がある。またこれ以外に民衆の間に受け継がれてきた様々な踊りもウランバートルの劇場などで見ることができる。
民族楽器 馬頭琴=モリン・ホールはモンゴルで最も広く用いられている民族楽器である。いちばん上に馬の頭の形がついていて、やや長い2本の弦を弓で弾いて演奏する。その音色は、草原の風のような渋味のある深い響きやまるで馬のいななきのような響きがするのである。 他にも、ヤタグと言う箏、ホーチルと言う4弦の二胡、ヤンチルと言う楊琴、ショドラガという大型の三味線、丸く小さい胴をもちリュートのように弾くトプシュール、ビシグールと言うチャルメラ、エヴェル・ブレーと言う角笛、イフ・ブレーと言う大型の金管楽器など中央アジアの諸民族やチベット、中国、朝鮮、日本と共通する楽器が多数あり、モンゴル民族が古来アジア各国と交流してきたことを示している。 民謡 モンゴルの「声」による芸能は以下の3つに分けられる。 -英雄叙事詩 -祝詞 -民謡 これらには自然環境とモンゴル人との関係が表れている。英雄叙事詩は古代の英雄についての物語を楽器の調べに乗せて長時間にわたり弾き語る。祝詞は年中行事、様々な祝い事、競馬に勝った馬にもメロディーに乗せて祝いの言葉が捧げられる。民謡はさらにオルティーン・ドー、ボギン・ドーと言う2つに分けられる。 オルティーン・ドーは「長い歌」という意味のモンゴル民謡の中の一分野であ る。拍節感のないメロティーが特徴的で、ゆったりと長く引き伸ばすから「長い歌」というわけである。歌詞は故郷の草原、山河、ゴビ砂漠、馬、ラクダなど、遊牧民の暮らしに深い関わりのあ るものが多く、両親や子供、恋人へお祭りや結婚式などめでたいところで歌われることが多く、緑起の悪いものについて歌われることは少ない。オルティーン・ドーの一番の特徴はその声量である。人間がマイクも使わずにこれほどの声を出せるものかと、聞けば誰もが圧倒されるはずである。オルティーン・ドー習得の難易度はかなり高い。装飾音には、こぶしや裏声など耳慣れたものからどうやって出しているのか想像もつかないようなものなど様々なものがあるし、音域も広く、ときにはかなり離れた音に跳躍したり、思いもよらない転調があ ったりもする。 歌詞の多くは、自然や愛馬や遠く離れた恋しい人、故郷を歌ったものである。 ボギノ・ドーはあ らゆる点でオルティーン・ドーと対照的である。これは「短い歌」という意味で、オルティーン・ドーのように長く引き伸ばすことはなく、拍がはっきりしていてメロディーも分り易い。ボギノ・ドーで歌われる内容はオルティーン・ドーよりも多様で、人生の喜怒哀楽一般から風刺まで様々である。モンゴル人の間では、もちろんポップスや演歌のようなも人気があるが、年配者から若者まで民謡が大いに愛され歌われていて、一般の人々が親しみ、気軽に歌うのはこのボギノ・ドーであ る。
ホーミー モンゴルの歌の歌い方に一風変わったものがある。1人で1度に2つの音を出して歌う歌い方である。低い声でメロディを歌い、歌い手の頭上で高音の笛みたいな伴奏が聞こえてくる。もちろん楽器なんか使わない。喉を思いきり聞いて、舌や唇、頭蓋骨、歯、肋骨などを調節して響かせるのだ。6種類の響かせ方があるという。モンゴル西部とロシア連邦のトゥバ共和国で受け継がれており、両者は現在ホーミーの起源をめぐって争っている。 モンゴルの美術 モンゴルの伝統美術にはチベット仏教の影響が色濃い。 モンゴルの仏教美術は、主にチベットのそれを移入・研究することによって成立した。なかでも、菩薩や祖師などの絵画、仏像に優れた作品が残されている。 今日に伝わる優れた仏教美術の代表列としては、初代ジェブツンダムバ活仏・ザナバザルの仏像・絵画が挙げられる。彼は1635年モンゴルの貴族の家に生まれ、15歳でチベットに行き、ダライ・ラマ5世にターラナークの化身と宣言されてモンゴルを代表する活仏となり、89歳で北京で没するまで、多くの仏像・絵画を残した。ザナバザルは多才な人物であった。かれの残した仏像や絵画がウランバートルのガンダン寺、ボグド・ハーン宮殿博物館やザナバザル記念美術館などに展示されている。 近代の美術 モンゴル近代絵画の開拓者としてマルザン・シャラブという画家が有名である。モンゴル人の生活の諸相を細部にわたって1枚の絵に描いた「モンゴルの一日」と「馬乳酒の祭り」は海外でも知られ、モンゴルのブリューゲルと例えられる。シャラブは仏画の伝統的な技法と様式を幼い頃から学んだ人だった。 1920~50年代からモンゴルの画家はソビエトに留学し、油絵などヨーロッパの技法を学んで帰国する。そして社会主義に関するテーマで作品を描いた。中でも一般の労働者や遊牧民の働く姿は主なテーマの一つであった。 1950年代末になると、第2次世界大戦などの困難を乗り切り、個人崇拝を放棄し、政治的に安定し党の絞めつけもゆるんだためか、題材にも幅ができ、画家の一部は伝統的な手法に回帰する。 モンゴル絵画は、一般に伝統的技法の影響を受け、陰影が薄く輪郭のはっきりした、あざやかな色彩を巧みに配置して対象の姿を生き生きと伝えている。
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