歴史 中央アジア、そしてモンゴル高原は古代よりドラマティックな歴史の舞台となってきた。 石器時代~青銅器時代 最近の考古学研究によると500万年前、すでにモンゴル高原には人間が居住していた。その証拠に石の上に書かれた印、岩絵、土器がモンゴルのバヤンホンゴル県や他の県でも発見されている。石器時代や青銅器時代の遺跡がモンゴル国には多数見られるのである。
匈奴帝国 紀元前209年、匈奴は当時としては比較的優れた制度を持つ帝国を建設した。匈奴帝国の支配は、モンゴル高原とその周囲を含む広大な地域にわたっていた。匈奴軍の攻撃から自国を守るため、中国の秦王朝は万里の長城を建設した。匈奴は紀元98年に内乱をきっかけに滅ぼされた。
鮮卑・北魏 匈奴帝国にかわって、モンゴルの東ゴビから移動して来た鮮卑が国家を建設した。鮮卑は強大で中国に進出し、中国の北半分支配下におき、北魏を建国した。
柔然・突厥 その後、5世紀から6世紀には鮮卑に服属していた柔然が中国に移住した鮮卑に代わってモンゴル高原を支配した。また紀元4世紀頃、アルタイ山脈西南に居住し鉄の鋳造や金の採取を得意としていたトルコ系民族突厥は紀元552年に柔然を破り独立した。突厥の主要産業は、畜産業、製鉄業、農業であった。突厥の領土はカスピ海からバイカル湖にわたり強勢を誇ったが、内乱によって紀元745年にウイグルによって完全に滅ぼされた。現在モンゴル国には突厥時代の文字「突厥文字」が記されたオルホン碑文が残されている。
ウイグルと契丹 モンゴル高原の覇権は遊牧ウイグル帝国に移されたが100年あまりで崩壊しています。かわって紀元907年、モンゴル全土が契丹の建国した遼の支配下に入った。契丹は主に移動様式生活をしていたが、その一方で多くの都市も建設していた。その証拠にヘルレン・バルス、ハダーサンギーン・チントルゴイ、ハル・ブルヘと言った都城跡が残っている。遼の経済成長は他の遊牧民族の発展に大きな影響を与え、後にモンゴル帝国の支配に組み入れられた際、封建制度の基層をなし、モンゴル人と漢人の橋渡し役となった。 モンゴル帝国 モンゴル帝国の主要な構成部族となった人々は当初、現・中国東北地方に帝国を打ち立てていた遼王朝、そしてその後を継いだ金王朝の直接・間接支配を受けていた。やげて12世紀末、モンゴルという名の一部族に現われたテムジンが、諸部族(81部族)を統一し、1206年に開かれたクリルタイ(部族に属する各氏族の長たちによる長老会議)で全モンゴルの大ハーンに推戴された。これがチンギス・ハーンである。 彼は征服した部族を解体して千戸という軍事的行政単位に再編し、この洗練された軍事動員力で中央アジア・トルキスタンに遠征、ホラズム・西ヨーロッパを減ぼし、金王朝にも出兵した。 チンギス・ハーンの後を継いだオゴデイ・ハーンはカラコルムにモンゴル帝国の首都を建設した。続く各ハーンの時代にも軍事的征服は継続され、東は朝鮮半島から中国全土、西は中部ヨーロッパ、北はシベリアから南は北インドまで広大な地域がモンゴルの支配下に入った。 モンゴル帝国は大英帝国を例外とすれば史上最大の帝国であった。
分裂時代のモンゴル 1368年、中国では明の朱元璋が大都に迫ると、元朝順帝トゴン・テムルは側近と共にモンゴル高原に逃れた。ここにモンゴルによる中国支配は終わりをつげた。 その後、数度にわたる明軍の遠征をこうむったモンゴルは、群雄割拠の分裂時代に入る。特に東モンゴルと西モンゴルは抗争を繰り返し、一時はオイラトのエセン・ハーンのような全モンゴルを統一する実力者も現われた。 この内乱を鎮め、モンゴルを再び統一したのが15世紀末のマンドハイ妃とバトムンフ・ダヤン・ハーンである。しかしその死後、モンゴルは再び分裂し、正統のハーン以外にもハーンを名乗り活躍する者が現われた。その代表者アルタン・ハーンはモンゴルにチベット仏教を普及させた人物として有名である。 またこの頃、外モンゴル・ハルハ部のアバタイがチベット仏教の活仏ダライ・ラマに会い、帰国後、カラコルムにエルデニ・ゾー寺を建立した。また彼の家系からは後にモンゴル最大の活仏となるボグド・ジェプツンダムバ活仏が現われた。
清朝支配下のモンゴル 清朝は1634年にモンゴルの最後のハーン、リグデン・ハーンを滅ぼし内モンゴル地域を征服した。当時、外モンゴル・ハルハでは三人のハーンが割拠していたが、1688年に侵入してきたジュンガル(東モンゴル)軍に破れたハルハは大挙して、中国の清朝に帰属した。清朝軍がガルダン・ハーンを破り、ジュンガル部をハルハから追い出した。こうして外モンゴルも清の支配下に入ったのである。 やがて1755年清軍はジュンガルの内乱に乗じて天山山脈北方にあったその根拠地に出兵し、これを滅ぼした。こうしてモンゴルはその後約200年清朝の支配下に置かれた。
ボグド・ハーン制モンゴル/自治モンゴル(1911年革命) 19世紀末になってボグド・ジェブツンダムバ活仏を中心にしたハルハ王公の一部に漢人の圧迫に苦しんでいた内モンゴル出身の官吏ハイサンが働きかけ、ロシアの援助を受け清朝からの独立が図られた。折りよく1911年に清朝が辛亥革命によって倒れたのに乗じて独立を宣言。ボグド・ジェブツンダムバ活仏8世がハーンに推戴された。
共和制に移行~1921年の革命 1917年ロシア革命が起こり、赤軍に敗れたウンゲルン率いる白軍がモンゴルの首都イフ・フレーを占領したことに対して、ダンザン、ボドー、スフバートルらの結成したモンゴル人民党はボグド・ハーンの承認の下でソ連赤軍に援助を求め、1921年モンゴル人民義勇軍と赤軍は、中国軍に占領されていてモ・ソ国境の町キャフタを解放、ついでイフ・フレーのウンゲレン軍を破った。 こうして成立した人民政府がボグド・ハーンをいただく立憲君主政体を取ったが、24年にハーンが死ぬと、共和制に移行した。24年に、モンゴル人民会議からモンゴルの初憲法発布された。その後モンゴルは路線対立による混乱が続き、大規模な粛清すら起こったが、結果的にソ連の指導のもとで社会主義国として発展することになったのである。
ハルハ河戦争・1939年 (ノモンハン事件) 1939年には東部国境で日本軍の大規模な侵入を受け、ソ連軍と共にこれを撃退することに成功した。東モンゴルにはハルハ河戦争の巨大な記念碑が建てられている。 第2次世界大戦には戦時体制でソ連を援助し、1945年にはソ連と共に対日戦線に加わった。戦後はシベリア抑留者の一部1万4千人がモンゴルに移送され、強制労働により1597名が死亡した。現在、ウランバートル郊外には日本人墓地と記念碑が建っている。
民主化 ソ連でペレストロイカが始まると、モンゴルでも86年からバトムンフ書記長の下で、ペレストロイカが始まったが、89年より民主化を求めるデモが起こり、まもなく代わったオチルバト書記長の下で、人民革命党は独裁を放棄し、複数政党制を導入、さらに大統領制が導入されてP.オチルバトがこれに就任、議会民主制への転換を行なった。 経済面では、資本主義が大きく推進され国有資産の分配や、国営企業の民営化が行なわれた。外交ではソ連一辺倒を改めて中ソ対立以降国交のなかった中国と関係を正常化し、日本、韓国欧米諸国などとも多面的な外交をすすめている。
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